食料がもう尽きた。 外に出て野草でも採取しよう、魚でも釣ろう、野うさぎでも狩ろう、も限界だ。 すでにとりつくした。すでにそれらは死に絶えた。すでにかれらは病を蓄えすぎた。 全ては灰のせいだ、と大地を覆う白いそれを見下ろす。 少し苛ついて、ギュッと、灰を踏みつけた。だけどその音も、全部吸収され、すぐに無音になった。 「灰」はすべてを覆い尽くし、人以外のものも当然殺し尽くした。 一体どこから降り続けるのかわからないが、止むことはないらしい。 おそらく、生命というもの全てが死に絶えるまで、やまないのだろう。 灰に触れれば、まずは温度を奪われる。雪よりもなお、熱を殺す。 次に、触れ続けたものの色を奪う。全てを灰にするかのように、色を殺す。 最後に、命を奪う。死体は灰に埋まり、形は崩れ、消えていく。 これがいつからか世界を覆い始めた、灰の病である。 治療法はないが、対処法は、なくはない。 生命に直接触れなければいいのだ。つまり、肌に直接触れなければよい。 空からおちた灰も、しばらくすれば害を失う。 こうして帽子とコートを着込んで、露出を減らしておけばいいのだ。 幸い「物」には浸透しないようなので、傘でもさせば、家にでも引きこもれば、なんとかなる。 川の水も、こうしてきちんと濾せばある程度の飲水になる。 これが経験則で僕らが学んだ、灰への対処法だ。 しかし、そうやって灰の病に対処しても、少しづつ、少しづつ、水を通して、空気を通して、食べ物を通して、灰の病は進行していく。 僕らにできるのはただそれを遅らせていきながら、細々と暮らしていくこと。 いずれくる、色のない死に怯え続けることだけ。 一人、またひとりと村人が死んでいくたびに、心がキュウとしめつけられた。 こわくて、こわくて、ただ体が震えた。 太陽の射さない中、わずかにあった熱すらも奪われるような感覚を覚えた。 自殺という道もあった。そうすれば、色のない死は避けられる。それは素晴らしい道にみえた。 それでも僕がそれを選ばなかったのは、まだ隣にエノクがいてくれたからだ。 エノクは何も言わず、ただ黙々といつも通り日々を過ごしていた。 濾過した水で掃除をして、うっかり生身で灰に触れないように積もった灰をどけて。 一度、生きることが怖くないのかと聞いた。 あいつは変化の乏しい顔で、いつもどおりに言った。 「死が来るからといって、友人をやめる理由にはならない」って。 なんだよそれ、と僕は返事に困り、とても微妙な顔をした記憶がある。 水はどうにかなっても食べ物はどうにもならない。 植物は幸い、灰の害の範疇外のようなのだが、そもそも年中灰がつもれば栽培なんて不可能な訳で。 食べれそうな野草も、たべられなさそうなものも、あらかた食い尽くした。 このまま灰の病で死ぬか、飢えて死ぬか。どちらも最悪だ。尊厳なんてない。 ……実をいうと、食料のあてはなくはない。なくはないが、手を出したくない。それこそ、人の道を外れるからだ。 ではどうすればいい?状況をかえるために、エデンを求めて遠出をする?それをする為の用意も、食料も、目的地もないのに?無謀すぎる。行き倒れが関の山だ。 ……それに、エノクはどうだか知らないが、僕も随分、病に侵されてしまった。長旅に耐える体力なんてもうないのだ。 疲れがでるようになった。めまいがするようになった。体温が下がった。 一度めまいを起こした時に、エノクに抱きとめられたことがある。その時服越しのエノクの体温にすら熱いと感じてしまった。灰に熱を奪われすぎたのだ。 肌の色が前よりわずかに薄くなったのだって、気の所為じゃないだろう。 きっと、僕も父さんや母さんのように、色のない、熱のない、置物のようになって死ぬんだ。尊厳のない死を迎えるのだ。 ……だけど、だからといって諦める理由にはならなかった。 治るなんて思っちゃいないが、奇跡が起きるなんて思っちゃいないが。 あんなことをいったエノクを、僕の勝手な理由だけでひとりになんかしたくなかった。 「ねえエノク」 「何だ」 「もしも僕が、先に死んだらさ」 「ああ」 「色のあるお墓を作ってくれるかい」 「……色のある墓?」 エノクが珍しく、オウム返しをしてきた。おかしいことでも言ってしまっただろうか。……おかしいことを言ってしまったな。うん。 「ほら、僕らは灰で死んだら、色がなくなって、熱もなくなって、死んでしまうだろう」 「そうだな」 「きっと僕も、もうすぐそうなる」 「そう、だな」 「その時は、せめて、この色のない世界で僕がいたってわかるように、色のあるお墓を作ってほしいんだ」 「……わかった。」 言ってしまってから、口を覆った。 死を看取ってくれという意味のことを、つまりは随分大変なことを頼んでしまったな、と悔やんだ。 さっきの言葉は忘れてくれ、そう言おうとした。……でも、それはできなかった。 「ノア、」 名前を呼ばれて、反応が一瞬おくれた。エノクが珍しく、自分から口を開いたからだ。 普段は僕から話しかけないと何も言わない寡黙な男が。子供の時からそうだった男が…… もう彼とのつきあいは10年以上だ。なのにここまで慌てるなんて、恥ずかしいにもほどがある。 でも、直後のエノクの言葉だって、大概恥ずかしい。 「俺は、ずっと友達だ。」 ドールアイのように、虚ろに輝く目が、僕を射抜きながら、真剣にそういうのだ。 一体どうした、明日は晴れるっていうのか。 「だから、」 エノクは僕の焦りように気づいてるのか気づいてないのか……多分気にしてないのだろうが……とにかくそのまま言葉を続けた。 「だから、必ず、お前の願いを叶えよう」 僕は混乱もあいまって、とても返事に困った。 正直なところ、笑い飛ばしてもらってもいいネガイゴトだったのだ。だって死を看取れなんて、僕より長生きしろだなんて、重すぎる話だったろうに。 後悔を押し殺し、良心が苦しむほどのまっすぐな瞳から少し顔をそらしてから、答えた。 「そこまでしなくていいよ。君と僕は友人だ。……だけど、こんな世界でも、君だって、一人の人なんだから」 だから、せめて好きなように生きてよ。あんなお願いなんて忘れてくれよ。そう続けようとしたら、エノクが僕の頬に両の手でふれた。 僕の視線を、彼の顔に向き直せた。 「俺にはこの見捨てられた世界をどうすることもできない。だけど、」 その声色がどこか上ずっているように聞こえたのは、錯覚だ。だってエノクは今まで、ただの一度も泣かなかったんだもの。まるで人形のように、感情を滅多にみせない男だったもの。 「お前の最後の願いだ。」 その青い瞳が、潤んでるようにみえたのも見間違いだ。 僕の目の方が、潤んでいたのだろう。 「せめて、俺に叶えさせてくれ。」 だって彼は、僕には不釣り合いなほど立派で、何一つ不平も言わない、そのくせ気配りはできるいいやつだったんだ。 「神じゃなくて、俺が叶えたいんだ」 その言葉が、どうしてか聞こえづらいのは、僕が混乱していたからだ。あいつが僕なんかの為に泣いてくれるはずがないじゃないか。 あとにもさきにも、あいつがあんな風にはっきりと僕にお願いをしたのは最後だった。 あいつはその後、何度も謝って、戻るからと約束して、そして「呼ばれたから」と言って家を出ていった。 この無音の中で何を聞いたのか、僕は知らない。 だけど、あいつがああもいったんだ。 あいつが、約束したんだ。きっと戻ってくるはずだ。 だから、それまで生きていないと。 あいつが戻ってくるまで、死ぬのはダメだ。 僕は、埋葬したはずの墓を掘り返した。 色のない、腐らない肉を、持ち出した。